ナショナリズム。絶望の国の若者。

Tokyo

 書店にはよくいきます。住んでいるマンションの近くにジュンク堂があるので、ほぼ毎日、本をみに行ってますね。みたい本が明確な場合もあるし、そういったものが何もなくてただ漫然とみにいくこともあります。

 ここ最近は、歴史とか国際政治の勉強をしているので、自然とそういうコーナーに足が向きます。池上彰さんの『そうだったのか!○○○○』というシリーズ。これは集英社文庫でもでてるんですけど、A4サイズのもともと出版されたときのもののほうが写真とかたくさんあって読みやすそうなので、買うならA4サイズのものを買おうと思ってます。

 後藤兼次さんの『ドキュメント平成政治史』。この方、あまりよく知らなかったんですけど、一時期ニュース23のメインキャスターをされていたようですね。あとは岡田英弘という歴史学者の著作集。藤原書店というところからでていて、全部で八巻あります。一冊一冊がけっこう分厚いんで、全部そろえると本棚を一棚占拠することになっちゃいますが。

 昔はけっこう勢いで買ってしまったんですけど、最近は自分の手に負えそうな本しか買いません。あと、自分のなかで分かりきっていることとか全く刺激を受けない本も買いません。当たり前といえば当たり前ですけど。いま掲げたような本は、まだ自分の手に負えるような感じではないので、買うべきタイミングを慎重に見定めているところです。

 こういった、買おうかどうかっていうことをモノによっては何ヶ月も迷っているような本をパラパラと読んだあとは適当に書店の中をふらふらしているんですけど、けっこう目につくというか感じとるトレンドがあって、それはナショナリスティックというか中国とか韓国に否定的な感情を抱いたり、日本の歴史とかを再検証するような本がたくさんでてるなあということです。天皇とかね。

ナショナリズム

 ナショナリズムってつい難しく考えてしまいそうだし、実際、まともに考えはじめるとえらくややこしいんでしょう。自分が読み解く力ついたらぜひ挑戦してみたい本があって、それは大澤真幸さんという社会学者が書いた『ナショナリズムの由来』っていうタイトルの本です。2000ページくらいあるそうです。まあ、ナショナリズムっていうものをテーマにしてこんな分厚い本を書けるくらいなんで、まともに理解するのはなかなか難しいと思われる。

 ぼくはいまんとこナショナリズムっていうのを「サッカーの日本代表戦をみていて日本のチームが勝つとうれしいし、負けるとくやしい」っていうくらいで理解しているんですけど。考えてみると不思議な話で、ぼくは本田圭佑とか香川真司と友達でもなんでもないし、利害関係もない。でも、彼らがヨーロッパのサッカーリーグでプレイしているのを見たり聞いたりすると、同じ日本人として頑張ってほしいなって思うし、活躍してたりするとうれしいんですよね。オリンピックで日本の選手が勝つとうれしい。まあ、そういうことです。

 日本が江戸時代から明治時代に移行するとき、西欧の主権国家をまねて国づくりをしたわけなんですけど、だから、それ以前には「おれたちは日本人なんだ!」って感覚をもっている人はいなかったはずなんです。「おれは薩摩の人間だ!」とか「おれは長州藩だ!」っていう意識はあったと思いますけど。

 そこで、政府は日本語教育をほどこして標準語を根付かせた。歴史とかも同じものを教えたんでしょう。学校で使った教科書は基本的に一緒だったはずです。そうしないと、日本人っていう意識を根付かせることに失敗しますからね。同じものを与えないと意味がない。ここで「それぞれの出身の藩の歴史をよく勉強しましょう」なんてやってたら、いつまでたっても「おれたちは同じ日本人なんだ」っていう意識はでてきようがないですから。

 とにかく、ナショナリズムっていうのは人為的につくられるものであって、決して自然発生的に生まれてくるものじゃない。こんな当たり前のこと、ぼくは大学生になって政治学の授業を受けてはじめて知ったんです。それまで国家っていうのは自明のもので、それは誰かが意図的につくりだしたものではなくて、自然に、当たり前のように存在するものだと思ってましたから。

 こうやって考えてみると、学校っていうものがあれほどの矛盾や問題を露呈しながらも存続し続けている理由っていうのが分かるような気がします。算数とかの勉強だったら、あんなところで教えてもらわなくたってもっと気の利いたところ、たとえば公文式なんかで集中的に叩き込んだほうが効率がよさそうですよね。協調性を育むとかなんとかいってますけど、それだって仕事をしたり、地域のスポーツクラブに所属したりすることで身につけることができるものでしょう。ただ、学校教育の目的が「日本人」をつくりだすことにあるなら、話は違ってきてああいう学校みたいな施設が必要になってくるっていうのはうなずけるような気がします。

 国家として大事なのは、国民が同じ言葉を話し、同じ歴史観をもち、同じ教育レベルにあるっていうことです。もし、これらがバラバラだと「同じ日本人だ」っていう意識が育たず、社会保障制度みたいに、自分の友達でも家族でもないひとを支えるために、自分の稼いだ金が原資として使われるってことに反対するひとが多くなるでしょう。ドイツなんかみてても難民とか移民のために自分たちの税金がつかわれるのが納得いかないっていうひと、多いみたいですよね。これは、つまり、同じドイツ人であれば自分が汗水たらして稼いだお金が使われるのもやぶさかではないっていうことだと思います。

 一方で激変する社会状況のなかで、「平均的な人間」っていうのがいらなくなってきています。均質で、ひとの言うことを素直にきく人よりも、でこぼこしていて、いびつで、でも自分で考えて行動する人間が求められるようになってきている。これはどちらがいいという話ではなくて、いまの時代はこういうトレンドだということでしょう。かつては、日本型の、均質で勤勉で素直な人材が支える会社が絶賛されたこともあった。

 公教育の分野でも「個性的な人材を育てよう」という声はあるみたいですね。あと、英語教育の実施とか。これらは日本人という仲間意識を薄めることはあっても、決して強める方向には作用しないでしょう。そうなると、社会保障制度とか税制度がうまくはたらくのかどうか。法改正なんてしちゃったりしてね。社会保障制度なんて、お金的な面からいってもうまく回らないでしょうし。他人のことなんて関係ないっていう。実際、そうなってきていると思いますし。

絶望。若者。日本。

 あと、話は少し変わるんですけど、書店をぶらぶらしていて目につくのが、日本の若者が将来に希望をもてない的なタイトルの本です。これは最近のトレンドっていうよりも数年くらい前からの傾向だったような気がしますけど。

 作家の村上龍が『希望の国 エクソダス』っていう小説を書いていて、そのなかに「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」っていうセリフがあるんです。エクソダスっていうのは出エジプト記のことらしいです。旧約聖書の。いまの時代では大量の国外脱出という意味になる。

 この小説は今から一五年くらい前にかかれたものなのなんですが、たしかにその当時、ぼくもそういう気分になっていました。ぼく個人の話でいえば、そういったものを社会的にではなく個人的に解決しました。だから、いまのぼくは希望をもっていますし、希望のもてない社会だとかなんとかいう記事とか本を読んでもあまりピンときません。ある意味、無関心になってしまっている。

 ある問題があったときに、それを個人的に解決するのか、それとも社会的に解決するのか。たとえば、さっき公教育の話を少ししましたけど、公教育のレベルに不満があった場合、お金持ちはめちゃくちゃ学費の高い私立に入学させることでそういった問題を解決することができる。医療だってそうで、金持ちだったら保険のきかないものすごく高額な医療を受けたりすることができる。一方で、たとえば塾に通う費用を国とか自治体で全額補助したり、高額な医療を保険の適用対象とするよう法改正する道もある。これらは社会的に解決するということです。

 そもそも希望をもてないということを社会的に解決する方法が存在するのかどうか。給料が安定した仕事を供給しようにも、会社自体がいつつぶれるのか分からないんだから、そんなの無理だし、そうやって会社がつぶれて失業したひとを社会的に養おうとしても、国や自治体の財政はとんでもない赤字になってるからそれも難しそうだ。

 なんというか、人生を受動的に生きているかぎり希望をもつのは難しいと思うんですよね。他人になんとかしてもらおうっていう態度から、明日を生きる活力が湧いてくるわけがない。

 将来に希望をもつとかもたないってことはかなり個人的なレベルに属する問題かなって思います。周囲の環境がどうであれ人生に希望をもって生きていくということを個人レベルの工夫でなんとかできるかもしれません。

 希望をもつにあたって個人的に大事だなって思うのは、自分にできることを地道にやり続けることです。いくら自分が頭でやりたいって思っていてもできないというか、自分に向いていないってことがありますから。自分に向いていないことを意志の力で無理矢理やろうとしても何かが破綻するか、誰かが犠牲になると思います。あと、大切なのは続けること。これは続けるというよりも結果として続いたことに自分で気が付くということですかね。

 

 何かをなんとなくでもいいから地道に続けていると、自分では決してこえることができないと思われた壁も突破できたりするんで、そういう経験があると「何がおきてもなんとか生きていける」っていう実感も湧いてくる。そして、この実感を表現する言葉が希望っていうものになるのかなと。

そんな風に思います。