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加藤周一さんのこと

日本その心とかたち (ジブリLibrary)

 加藤周一さんが亡くなってから何年たったでしょうか。まだ、十年は経っていないはずです。

 

 思い返すと、高校を卒業して大学生になったはじめての夏に、加藤周一さんの評論集を買いました。平凡社から出版されている、鷲巣力さんというかたが編集されていたものです。評論を読んだときの衝撃はなかなかのもので、ものごとをこれほど理路整然と語ることができるひとがいるってことが信じられませんでした。

 

 ぼくは、いまだにそうなんですけど、評論とか批評を仕事にしているひとって、結局、自分でしっかりした何かを生み出す力がないから、他人の作品を題材にして、ああでもないこうでもないって言ってそれを仕事にしているんだろうって感じがしてしまって、そこまで言うなら自分でつくってみればいいじゃないかっていつも言いたくなるんです。

 

 でも、加藤周一さんの評論は、あれはあれでひとつの完成されたアートワークであり、膨大な文献を踏まえて書かれたものなので、つまり、評論とか批評とよばれる分野であっても、芸が極まれば立派な仕事になるのだということを若き日のわたしに印象づけてくれました。

 

 スタジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫さんも加藤周一さんの崇拝者で、彼は全集を二回読み直したってどこかで言っていたような記憶があります。ジブリから『日本 その心とかたち』っていうDVDも発売されています。スタジオジブリがつくりだしてきたアニメーションを通じて加藤周一の思想はあまねく日本人にいきわたっているのと思うのですが、多くのひとはあまり注意したことはないと思います。

 

 加藤周一さんはこういうことを言っています。

 

 日本人というものは、全体というものをあまり考えない。何かものをつくろうとするときに、部分に異常に執着し、洗練の極みにまで達する。建築や文学をみても、部分の集積が全体につながるのであって、全体を構成するものとして部分というものをとらえていない。日記文学や工芸品などを観察するとそういう傾向がみてとれる、と。

 

 確かに西欧の建築や文学は最初から全体を構想して作りこんでいったような印象を受けます。だから、建築なんかみても均整がとれているし左右対称になっている。向こうのほうの文学にも長大なものがありますが、それは最初から全体を意識して書かれている。それに対して、日本のものは身辺に注意を向け、それを微細かつ繊細に描き出し、その集積が結果として膨大な量につながっている。言われてみればなるほど、と思わされる見解です。

 

 『日本文学史序説』という本があります。これは文学という切り口によって日本の歴史を通観しているもので、いわゆる通史ものになるわけですが、この本は日本史を非常に不得意としていたぼくにひとつの視座を与えてくれました。まだまだ日本の歴史については不勉強なことが多いのですが、この本が与えてくれたものを手掛かりにして自分の知の領域を拡大していきたいと思っています。

 

 できれば、ぼくもこの本でとりあげられている文学や仏教に関する著作の原典にあたってみたいのですが、いかんせん、それは無理そうです。いったい、何をどうやって鍛えたら漢文とか古文を翻訳なしで読み解く力が身につくんでしょうか。まったく謎です。

 

 どの本で読んだのか覚えていないのですが、印象深かったのは戦争責任について書かれた文章の一節です。

 

 たしかこんな感じの文章でした。

 

「過ちを公然と認め、それを正そうとした者はもはやあやまったのではない」

 

 加藤周一さんが亡くなられ、たしかNHKだったと思いますが追悼の特集が組まれたときに、姜尚中さんが出演され、同じ発言に言及されていました。

 

 これは個人の人生ということにあてはめてみても十分に価値のある文章だと思います。

 

 ひとは必ず失敗をするし、ひとに迷惑をかけることもある。ときには、取り返しのつかないことだってするでしょう。ただ、それを認めて、二度と繰り返さない姿勢をもったひとは、自分の過ちから何かを学びとったということですし、そういったひとは自分がおかしてしまったことを記憶にとどめながらも、必要以上に責任を感じることはないのだ、ということになるでしょうか。