自分以外の何かを自分に宿すということ

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 人間は自分の人生に大きく影響されるものである。だから、自分の経験に照らしてものごとを考えたり判断したりすることが多いわけだが、現代のように次々と新しい技術が誕生し、その都度、社会に対して大きなインパクトを与え続けるような社会では、自分の経験ばかりに頼っていると大変なことになる。

 

 歴史をふりかえってみると、社会体制が大きく変化するポイントというのはいくつもある。つまり、社会が変化するということは歴史上極めて普通のことであって、自分がいまそういった転換点に立つ社会に生きているのだという自覚をもつことは大事なことであると思う。

 

 歴史に限らず、好奇心をもっていろいろなことを勉強することは大切だ。それは自分の経験という、極めて個人的で特殊なものによってものごとを考え、判断することを避けるのに役立つ。

 

 知的好奇心こそ、人類に与えられた偉大な能力である。これこそが様々な冒険の原動力になり、数々の新しい発見をもたらしてきたのだ。地球の引力圏を脱し、宇宙空間に到達することができたのも、この偉大な能力のおかげである。

 

 本を読まないひとが多くなったときく。代わりにインターネットやスマートフォンで情報を集めているのだろうが、それでは膨大な情報に振り回されるばかりで、腰を落ち着けて未来を見据えることはできない。

 

 もちろん、くだらない本もたくさんある。紙媒体で発行されているからといって、必ずしもその本に価値があるわけではない。いわゆる、古典を読むといいと思う。

 

 多くの古典は、最初は面白くない。そもそも表現自体が、ぼくたちが日常的に使っているものとえらくかけ離れているし、書かれている内容も一見して汲み取りがたい。しかし、自分なりに時間をかけて読んでいると、ある日、古典はその扉をひらき、深淵で豊穣な世界へと導いてくれる。

 

 この社会に流通している情報のほとんどはノイズだ。だから、このノイズを除去できる能力を身につける必要がある。こういった能力を養う意味でも古典を読むことは役に立つ。外国語でもいい。自分が慣れ親しんだ価値体系とは全く異なる価値体系に触れ、自分のものとすることが大切なのである。これは、自分の考えを相対化、客観化するのに役に立つ。これが精神の世界における鏡となる。

 

 人間は孤独である。

 

 大事なことを決定するときは自分ひとりだ。誰かに相談しても適切な道を示してくれるわけではないし、そもそもあなたが何を大切にしたいか、何を幸福に感じるかということはあなた自身にしか分からない。

 

 一方で、繰り返しになるが、自分の人生経験だけに依拠した判断というのは極めて危険だ。その判断の影響が自分自身におさまるものであればいいが、他人を巻き込む場合がある。そうかといって、やみくもにひとに相談すればいいというものでもない。

 

 自分以外の、しっかりとした何かを自分のなかに宿すということは、孤独な人間にとって大切なことなのだ。

 

 自分の人生というのは、特殊で、個別的な一回性のものである。これは文学や哲学、思想、宗教といったフィルターを通さないと、他者と共有することができる普遍性をもった言葉にはならない。ならないと言って言い過ぎであれば、極めて難しい。しかし、言葉にすることができれば、他者もあなたの経験を共有することができる。評価や批判といったことが可能となる。そして、この他者のなかには、実はあなた自身も含まれている。

 

 ぼくがここまで自分の人生経験だけを頼りにしてものごとを判断しないようにとお願いするのも、ぼく自身が「大人」と呼ばれる人たちから彼らの人生経験だけを基準にして叱られたり、説教されたりすることが多かったからだ。もちろん、自分の人生にいい方向に作用する場合もあったのだと思うが、それが帳消しになってもまだあまりがあるほど、ぼくの人生をゆがめてしまったような気がする。

 

 ぼくはときどき思う。

 

 小さいころ、ぼくのまわりにもっとインテリジェンスのある大人がいたなら、ぼくの人生はここまでこじれなかっただろうと。

 

 いまのぼくは希望と気力にあふれている。自分の人生は自分で切り開いていくつもりだし、何かあったら自分で責任はとる。

 

 自分の行きたいところには、自分の足をつかって歩いていく。

 

 もちろん、他人からの批判や警告なんて気にしない。彼らは、自分を基準にしているだけだからだ。もし、批判や警告をするのであれば、せめてぼくの話を聞いてからにしてほしい。