大量の情報にふれて、自分の頭で考えて、そのうえで情報を発信することが大切だ
ホリエモンこと堀江貴文が近畿大学の卒業式のスピーチでこんなことを言っていました。
「大量の情報にふれて、自分の頭で考えて、そのうえで情報を発信することが大切だ」
ぼくもまったくそうだと思います。これはもうゆるぎのない三点セットで、どこかが欠けてもうまく循環しないでしょう。ボロメオの輪という三つの輪がかっちりと組み合わされたどれか一つが欠けると全部ほどけてしまうというものがありますが、そういうもんだと思います。
三というのはなんにせよバランスがいい。じゃんけんもそうですし、三脚だってそうだ。ひとに何かを伝えようと思ったら、その要点を三つにまとめるといい。
ただ、ホリエモンの言うことを実践しようと思ったら、これはなかなか難しい。難しいけどやらなくちゃいけない。学問に王道なしという言葉がありますが、これは少しおかしくて、学問には王道しかない。そして、その王道は何かというと、これはホリエモンの言う通りになると思います。話は学問だけに限ったことではない。この時代にどこでどういった活動をしようが、基本となるのはこの三つです。
しかし、三つのうちいずれもある程度の高いレベルでやろうと思ったらなかなか簡単なことではない。バットをふることくらいなら誰でもできますが、ヒットやホームランをうてるようにバットをふることは誰にでもできることではない。
ここでは、ぼく自身がこの三つについてどう考えているのかということをお話しします。何かの参考になると幸いです。
1 大量の情報に触れる
ぼくの場合、基本となるのは本です。電子書籍ではなく、紙の本。この紙の本を使用するということについてホリエモンは非常な嫌悪感を示していますが(笑)。そんなら自分の本を紙で出さないで電子書籍オンリーで出版することから始めりゃいいと思うんですけど。
徐々に改善されていくとは思うんですけど、インターネット上に流通している情報はその真偽のほどが見極めづらいし、まとまったボリュームで存在することは少ないし、仮にまとまったボリュームの情報があったとしても、自分がどこまで読み進めたのかを管理できるようなシステムと一体になっていることは極めてまれです。
現段階では、モノによりますが、紙の書籍はある程度これらをクリアしている。
自分がある程度詳しくなると、インターネット上に流通している情報もじゅうぶん参考になると思いますが、あまり詳しくない段階ではやはり紙の書籍が頼りになる。
紙の本だからといってなんでもかんでも参考になるかと言ったらそうではありません。インターネット上に負けないくらい、おかしな本がたくさんある。
さて、それでは信用に値する情報が盛り込まれた本をどうやって見極めたらいいかということなんですが、これについてはぼくは文体と体裁を参考にしています。
文体がおかしいということは日本語の運用能力が低いということであり、日本語の運用能力が低い人間がまともな本を書けるわけがない。
文体がおかしいかどうかをどうやって見極めるかというのは難しい話で、あまり持ち出したくないんですけど、経験がものをいう世界でもあります。
強いて言うと、おかしな文体は読んでいていちいちひっかかりがある。きちんとした文体は書かれてある内容が難しい場合でも、読んでいて心地いい音楽をきいているようなリズム感があります。
これは、著者がどのくらいのレベルから言葉を紡ぎだしたのかということと関係していて、昨日今日仕入れた知識を適当に組み合わせているだけの場合は、多くの場合、おかしな文体になります。
そうではなくて、自分自身が長い間温め続けてきたことを語ろうとする場合、それはもう十分に言葉が肉体化されていますから、それは聞いているほう、読んでいるほうにとっても受け取りやすいものになる。
言葉を紡ぎだすのは結局は肉体であり、それを受け取るのも肉体の各器官を通じてのことです。情報を受け取るというのはこのように極めて肉体的な行為だということ、そこに注意するといいと思います。
体裁についてはとくにいいですね。デザインや装丁がしっかりしているかどうかです。
あとは、本の中でひとの悪口を言ったり自分の説の正当性をやたらと主張するような著者も疑ってかかったほうがいいです。だいたいこういうひとの書いた本は、おそろしい偏りをもっている。自分自身がその分野についてある程度の見識をもっている場合は、そういった偏りをある程度コントロールして楽しめるようになると思いますが、不慣れな状態でそういった偏りのある本ばかりに触れ続けるというのはよくないような気がします。
2 自分の頭で考える
「考える」とひとくちにいっても、これはなかなか簡単なことではない。この言葉にはいろいろなことが含まれていますね。
ぼくは小さいころ、「考えろ!」と大人に言われて当惑した覚えがあります。いったい何をどうしたらいいのか、まったく分からなかった。蛇足ですが、「死ぬ気でやれ!」という言葉にもかなり混乱させられました。いったい、何をどういうスタンスでやって、どのレベルの基準を満たしたら「死ぬ気でやったこと」になるのかが、まったく分からなかった。そもそも、小さい子どもが「死ぬような経験」をしたことがある可能性は低いのですから。
さて、頭で考えるということですが、話を具体的にして、まずひとつ言えるのは大量の情報にふれているうちに、自分の中で矛盾する二つの見解がでてくるような場合です。
Aさんはこう言っていたが、Bさんはこう言っていた。いったいどちらが妥当なんだろうか。
これは、自分の頭で考えはじめるきっかけのひとつですね。そして、簡単には結論を出さないのがポイントです。このとき、Aさんのほうが有名だからとか、Aさんは○○大学を卒業してるからとか、そういったことでBさんの見解を却下してはいけません。
そうすると、確かに楽になるのですが、それは安易な解決方法であって、そんなことをしていたら他人に簡単に騙されたり、他人を不必要に攻撃する性質を宿したり、とにかくそういったよくないことが起こります。
長いあいだ、自分のなかでこういった矛盾やぶつかりあう見解を温め続ける。
そうすると、ある瞬間に、自分にとってどちらがよりしっくりくるかということが決まる瞬間がくる。決めるのではなく、決まるのです。時間というフィルターが自分にとってより自然でより必要性の高い見解を選び出してくれる。
考えるという行為は、その他にも非常に複雑なものをはらんでいますが、とにかく、かように時間のかかる側面をもっているということを指摘しておきます。
3 情報を発信する
これについては、とにかく自分で納得していないこと、昨日今日仕入れてきた知識を発信するようなことはしないようにしたほうがいいと思います。
ひとによって見解が分かれるところだと思いますけどね。個人的には、自分のなかで十分に納得できていることしか、情報の名に値しないと考えています。
発信している本人が納得していないようなものを読まされることは、十分な練習をしていない芸を見せられたり演奏を聞かされたりするようなもんで、受け手にとっては非常にストレスになる。
現代のように気軽に情報発信できるような世の中になったらからこそ、そういったことに注意して欲しいなと思います。
まあ、友達と連絡をとりあうような感覚で、インスタグラムとかつかって写真投稿したりするのは、それはそれでありだと思いますが、ぼくはここではそういった情報発信について話をしているのでなくて、あくまでも「大量の情報に触れて、自分の頭で考えて、そのうえで情報を発信する」という文脈のなかにおける情報発信について話をしています。
以上、とっても偉そうに書いてきましたが(笑)、自分自身きちんとできているかというとできていないこともある。とくに、情報を発信するということについては、試行錯誤を繰り返している最中です。
このブログはラジオで話をするように思いつくままに書こうと決めているものなので、言葉の使い方が不正確だったり、話の順番がごちゃごちゃしていたりしていますが、これはこれでありかなと自分には言い聞かせています。
いずれは、まとまりがあって、整合性がとれていて、デザイン的にも美しいかたちで発表する予定ですが、それに向けて奮闘している最中であります。