読書の目的が情報をあつめることだけだと思いこんではいないだろうか?

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本を読むということは、なかなかに複雑な行為である。

 

それは、つまり、「本を読むと具体的にどういう効果があるの?」という質問にたいしてひとことで説明するのがむずかしい、ということだ。

 

どういう本を読むかにもよるし、どういう読み方をするかにもよる。

 

本を読むひと自身の考え方、経験、国語力、論理力もおおいに関係してくる。

 

ぼくがいいたいのは、本を読むことを単に情報をあつめることだと思いこんで、読書という多様で複雑な行為を深めないことは、じつにもったいない、ということだ。

 

結論から言ってしまえば、本を読む効果のひとつには、読むことをつうじて経験をする、というものがある。

 

この効果は絶大で、たとえば、すぐれたノンフィクションや自伝を読むと、じぶんが生まれるはるか昔、遠い外国でおきたできごとや偉人とよばれる人間の人生なんかも追体験することができる。

 

ひとの人生はみじかい。

 

すぐれた本には、人生におけるかず多くの失敗や不幸がえがかれている。わざわざおなじような振る舞いをして貴重な時間をむだにすることはない。

 

文字をつうじてこのような追体験をできるようになるには、あるていどの訓練がひつようだ。

 

すぐれた書物のなかには、文体がかたくるしかったり、日常生活ではつかわない単語がひんぱんに登場したりするものもある。

 

すべてのすぐれた書物が芥川龍之介や村上春樹の書く本のようによみやすい文章でかかれているわけではない。

 

しかし、読みにくいからといってすぐれた書物にとりくまないのは、もったいないことでもある。

 

読みにくさにも種類がある。

 

本当によみにくい文章である場合と、自分の実力不足・知識不足でよみにくくなっている場合だ。

 

これらを見分けるのはなかなかむずかしい。見分けるには経験がものをいう。

 

手軽なのは、じぶんが尊敬する作家がすすめている本を読むことだろう。

 

万人にうけいれられる文章を書くためには、とほうもない読書量と「書く」という訓練がひつようになってくる。

 

必然、文章にたいする嗅覚もするどくなってくるので、すすめている本が変だということはかんがえづらい。

 

百発百中とはいわないまでも、打率三、四割くらいのレベルは保証されている。プロ野球の世界と似たようなものとイメージしていただきたい。

 

こういった読書経験は、時間のある学生時代にぜひ積んでおくべきだ。

 

語学の勉強もそうだが、身につけるには膨大な時間と手間が要求される。

 

日本の社会人はいそがしい。デリケートな案件をかかえた状態でのんびり読書するじかんはないだろう。

 

そして、すでに社会人になってしまったひとへ。

 

朝の通勤時間。お昼ごはんの時間。家に帰宅するまでのちょっとした時間。

 

こういった時間をすぐれた本をよむことにあてることは、けっして無駄にはならない。

 

ぼくがみてきた限り、本をたくさん読んでいる人間がかならずしも成功するわけではないが、成功した人間は、ほぼ例外なく、たくさんの本を読んでいる。

 

「おれの人生、このままじゃ終わらないぞ!」

 

そう考えている社会人のかたには、ぜひ、深い読書をすることをおすすめする。