じぶんが素晴らしいと感じたことをじぶんなりに語ることは、その素晴らしいものがのこっていく可能性を高める

NETFLIXで配信されているドキュメンタリーに『CHFE'S TABLE』というものがある。

 

世界最高クラスの評価を得ているレストランのシェフやそこに関わるひとのインタビューや、調理やサービス、オフの過ごし方の様子を織り交ぜたもので、ボクのお気に入りとなっている。

 

昨日も何気なくそれを見ていたのだが、あるシェフのこんな言葉が気になった。

 

「料理は素材を超えることはできない。そのことを分かっていないシェフがおおい」

 

いまや誰でも情報を発信できる世の中になった。どういった情報を発信するかだが、それは自分のお気に入りの映画やマンガについてだったり、じぶんが感じたり考えたりしたことであったりする。

 

ずっと以前から感じてきたことなのだが、たとえば自分のお気に入りの映画やマンガについて書かれた文章はその作品を超えることはない、と思う。また、じぶんが感動した言葉や風景を他人に伝えようとしても、それを伝えようとする言葉や写真がもとの感動や風景を超えることはない。そう思う。

 

作品にふれて素晴らしいと感じるひとは感じるし、そうでもないと思うひとはそうでもない。同じ風景をみて感動するひともいれば、そうでないひともいる。いずれにしても、じぶんが何を言おうとほとんど影響しない、そう考えていた。

 

だから、ボクはじぶんが何かかしらの情報を発信するということに極めて消極的であったし、他人が発信しているほとんどの情報について、肯定的に評価してこなかった。

 

余計なノイズを増やす、ノイズが増やされるということが嫌だったのだ。

 

そして、ノイズではない、真に見たり聞いたりするのに値するような情報を自分の手で生み出すことは極めて難しいし、一部の天才的でクリエイティヴな人間は別として、他のひとも生み出すことはほぼムリだ。そう考えていた。

 

ボクが気になった発言をしたそのシェフは、また、こんなことも言った。

 

「伝統的なレシピがなくならないようにする方法はひとつ。時代に合わせることだ。レシピを博物館で保管するように遺すのはムリなんだ」

 

ボクはいままで、さまざまな作品に感銘を受けてきた。そして、前述したような理由で、それについてじぶんなりに語るということに消極的だった。

 

「じぶんなんかがその素晴らしい作品について語って何になる。この世の中に余計なノイズを増やすだけだ。他人のためにならない、ムダなことだ」

 

だが、しかし、である。

 

じぶんが素晴らしいと思っているだけでそれを他人に伝えることを怠っていたら、その作品がこの世から消えてしまうとしたら?

 

じぶんの書く文章がもとの作品を超えることは決してないとしても、その作品が長くのこり続けるために、多少なりとも資することができるとしたら?

 

もし、料理が素材を超えることがないとしたら、シェフはいったい何のために料理をするのだろう。それは、素晴らしい素材が存在するということを伝えるため、それを伝えるための方法(レシピ)を遺していくためだ。

 

じぶんが何かを語ったり、書いたりするということについて、ようやく意義を見出したような気がしている。