苦しくならないようにするためには、期待をしないこと

人生における苦しさは、いろいろとある。ひとによってもそれぞれだと思う。

 

ただ、人生における苦しみの多くは「期待をすること」によって発生しているのではないか。そんなことを考える。

 

「これだけ苦しんで頑張っているのだから、これくらいの結果がでるはずだ。そうでないと、この苦しんだ期間、想いがむくわれない」

 

「家族のためにこれだけ苦しい思いをして働いているのだから、当然、家族はじぶんに感謝をするはずだ」

 

「彼(彼女)のためにこれだけのことをしたのだから、振り向いてくれるはずだ。じぶんが苦しいときに、こんどは彼(彼女)は手を差し伸べてくれるはずだ」

 

多くの場合、こういった期待は裏切られる。落ち込むだけならいざ知らず、場合によっては、相手のことを恨んだり憎んだりするようになる。

 

どうしてこのようなことが起こるかというと、ものごとに取り組むにあたって、目的や目標といったものを立てて、それを達成することに重点を置いたり、見返りを期待するからだ。

 

このような悲劇をさけるためにボクがとっている処方箋は、人に何かするとき、じぶんが何かに取り組むときに、目的や目標といったものは立てず、見返りを求めない、というものだ。

 

逆に言うと、目的や目標といったものを立てなければいけなかったり、見返りを期待するのであれば、そもそも取り組まないし、人に対して何かのアクションを起こすこともない、ということになる。

 

それではどういうスタンスで何ごとかに取り組むのか、他人と一緒の時間を過ごすのかという話だが、それはただ無条件に楽しむ、充実した時間を過ごす、ということに尽きる。

 

そして、今のところ、ボクがもっとも充実する時間は何かを勉強しているときなので、ボクは一日のほとんどの時間を勉強することで過ごしている。

 

人生のスタンスをこのように切り替えてから、経済的には逼迫しているものの、ボクの精神状態は人生のなかで一番よいコンディションを保っている。

 

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例えばの話だが、じぶんが「好きな人」がいるとしよう。多くのひとは、彼(彼女)に近づくためにいろいろと努力をする。彼(彼女)の好みを知ろうとしたり、あらゆる機会をうかがって近づこうとする。一緒に話すことができる機会があったら、彼(彼女)を喜ばせようとしたり、面白がらせようとするだろう。

 

さて、これら一切の努力が灰燼に帰し、徒労に終わったとする。彼(彼女)はじぶんに振り向くことなく、別のひとと付き合っている。

 

このとき、彼(彼女)を憎むような気持ちがでたり、徒労感に襲われたりしたならば、そもそもじぶんは彼(彼女)のことが「好きな人」だったのかどうか、疑ってみてもいいと思う。

 

そうではなくて、彼(彼女)のことを考えたりするだけで幸せな気分になる、彼(彼女)と言葉を交わすだけで気分がいい。とくに彼(彼女)に何かしてもらおうと考えたり、感じたりすることはない。

 

こんなときは、ほんとうに彼(彼女)のことが好きだと思う。そうして、そういった無条件の時間を積み重ねていった結果、彼(彼女)と付き合ったり、結婚することになるだろうと思う。

 

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人生も他人も、じぶんの思い通りには動かない。だから、じぶんの思い通りにならないからといって、腹を立てたりイラついたりするのは、本当はおかしい。そして、そういったスタンスは、じぶんを苦しめ続けることになる。

 

だから、そういった苦しさを和らげていこうと思うなら、見返りを求めず、ただひたすら楽しい時間、充実した時間を積み重ねていけばいいと思う。

 

そして、楽しいことや充実したことに取り組んでいる時間は、集中力が高まる時間でもある。これは、過去でも未来でもなく、今、現在を一生懸命生きるということにつながるスタンスだ。

 

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ボクの人生のほとんどは、他人やじぶんに期待した結果うまれた苦しみによって縛られていた。そして、期待したような結果、反応はかえってこず、彼ら彼女ら、そしてじぶんすら憎み、嫌うようになった。

 

ボクの喜びや興味関心、憤りや葛藤といったものは、ボクの周囲の人間とは少しずれているようで、そのことでかなり苦しんできた。

 

「どうしてこの作品のすばらしさ、面白さが分からないんだろう」「どうして、そんなどうでもいいことに熱中するんだろう」「どうしてじぶんと同じ葛藤を抱えてないんだろう。ずいぶんと生きるのが楽そうだな」

 

こんなことを胸に抱えながら、いつしか他人と距離を置くようになった。楽しさも苦しさも共有できないのならば、話すことは何もないし、一緒の時間を過ごしたところで苦しいだけ。そんな考え方に落ち着くようになった。つまり、いじけることにしたのだ。

 

しかし、人生のあいだでひとが経験する喜びや苦しみに大した違いがあるわけではない。人生が順調そうにいっていたひとにもいずれ葛藤や挫折というものはやってくるし、葛藤や挫折にまみれた人生をおくっていたひとにも生きる喜びや楽しさというものはやってくる。

 

そして、ひとには平等に死というものがやってきて、すべてのひとはそれに向き合わなければいけない。

 

そういった意味で、ひとは平等だ。だから、今の時点では他人に共感したり、また逆に他人に共感されたりすることはないかもしれないが、それは未来永劫そうである、という話ではない。

 

すべてのひととの間に、何かかしらの対話の可能性が残されているのだ。

 

だから、難しいかもしれないが、じぶんという家のドアは開けておけばいいと思う。閉じるのは楽かもしれないが、それではひとりぼっちになってしまう。

 

開けておけば、そのうち誰かがたずねてくるものだ。そして、じぶんから誰かをたずねにいけばいいだろう。

 

じぶんは、そうしていきたいと思う。