秋の音
セスナ機が飛んでいる音がすると、空を見上げてしまう。
そして、しみじみと秋が深まってきたことを感ずる。
こんなとき、私の心は一時(いっとき)、高校時代へと戻る。
高校時代、テストの都合などで学校が午前中のうちに終わることなどがあったように記憶している。
普段は厚い雲におおわれているような心持ちで生活していた私も、このようなときばかりはよく晴れた空に比例するかのように心持ちが少しは晴れたものだった。
そうして、学校から帰宅し、自分の部屋で本や漫画を読んでいると、私の耳にセスナ機の飛ぶ音が入ってきたものだ。
私はその音に誘われて、窓をあけ、空を眺めた。秋の澄んだ空を見上げながら、少し冷たい風が頬を撫で、過ぎていくのを感じた。
そうして、自分の人生はこれからいったいどうなっていくのだろうか、などとぼんやり考えたのである。
あれから十五年以上が経ち、私はいま中年とよばれる年齢に差しかかっている。
あいかわらず自分の人生の行末に不安を抱いているものの、最近ではなるようにしかならないと前向きにあきらめてもいる。
夢や目標といったものを抱いて、その実現に邁進するのも悪くないが、人生というものをそういったかたちでコントロールすることに疑問を抱くようになった。
夢や目標といったものをもつのはいいが、それは必ずしも実現・達成しなければいけないものではなく、自分の人生をよりよく生きていくためのおぼろげな目印といったものでよいのではないか。そう考えるようになった。
なんとなれば、夢や目標といったものは多くの場合、実現・達成することができず、場合によっては人生自体が思いもよらないかたちで終わってしまうことがあるからだ。
そのとき、夢や目標といったものにとらわれていては自分の人生に暗い翳をおとすことになるし、自分の人生が志半ばで終わってしまったという後悔の念を抱きながら一生を終えることになってしまう、そんなことを危惧するのである。
そうであるから、自分の人生は瞬間瞬間に完結しているものだと思うようにしている。そして、夢や目標の実現といったものにあまりこだわらず、瞬間が充実することをもって満足するようにしている。
もちろん、そういうスタンスをとったからといって人生の不安が消えてなくなるわけではないが、私の精神はかつてないほど落ち着きをみせるようになった。
将来に対する不安や恐怖をかかえながら秋の空を眺めていたかつての自分に、こんな話をしてあげたいものである。
仕事について
自分にしかできない仕事というものがある。
そういう仕事をしようと思ったら、自分というものを深く知る必要がある。
自分にできること、できないこと。
自分が気持ちよくなること、悪くなること。
そういったことを試行錯誤して把握していく。
仕事は純粋であることが大切。そう思う。
不純なものは他人に伝わりづらい。眺めていても不愉快になる。
純粋であるためには遊ぶのがいいと思う。義務感は苦しい。
打算。戦略。そういったものは遊びでは重要でない。勝つことが最たる目的ではない。
自分もふくめて、みなが気持ちよく遊ぶにはどうしたらいいか。マナーやルールといったものはそのようなことを考えた結果でなくてはいけない。
自分自身が気持ちよく遊んでいないとそういうことに鈍感になる。
そして、このご時世、多くのひとが嫌々仕事をしているので、不快な場所、商品、サービスがほとんどだ。
ぼくはこういった風潮に対して、ささやかな抵抗をこころみたい。
遊ぶように仕事をして生きていきたい。
じぶんなりの言葉
じぶんなりの言葉というものは、他者の言葉でみがかれるものらしい。
たとえば、読書や対話によって。
古典を読むことはじぶんの言葉に普遍性をあたえてくれる。そう信じている。そして、対話は現代性と個別性をあたえてくれる。
そして、じぶんの言葉とそれをみがいてくれた他者の言葉はあまり似ていない。
読書と対話を繰り返していけば、じぶんなりの言葉というものができあがっていくだろう。
しかし、それはあくまでも結果だ。
なにはともあれ、読書と対話を楽しまなくてはいけない。
じぶんなりの言葉を手に入れたら、あとは無限のフィールドに飛びだしていく。素材は無限にあるからそれを自分の言葉で語り直すといい。
言葉は紡ぐものでもある。むりやり引き出そうとするとちぎれてしまう。
また、発酵というプロセスをへると言葉にコクがでる。発酵は時間がかかるのであせってはいけない。