すべてがまちがっているということはありえない

Mistakes

 ナチスドイツを称賛するひとは、いまの日本にほとんどいないだろう。第二次世界大戦でフランス、ポーランドなどの各国を侵略し、イギリスにミサイル攻撃を仕掛け、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻した。ホロコーストとよばれるユダヤ人の大量虐殺を行い、捕虜や囚人をつかった人体実験を行ったりした。

 

 テレビのドキュメンタリーなどをみていても、狂気の独裁者ヒトラーが率いるナチス党がすべてを行ったかのように感じるが、果たして本当にそうだったのかどうか。

 

 第一次世界大戦の敗戦による多額の賠償金と一九二九年に始まった世界恐慌のせいで、ドイツ経済は壊滅的となった。そのドイツの経済を立て直し、街にあふれていた失業者をなくし、戦争を行って連戦連勝という結果をだしたのもヒトラーのしたことであり、それを支持したのはドイツ国民である。

 

 国民は騙されたというのだろうか。ナチスの行ったプロパガンダによって翻弄されたというだろうか。煽られて熱狂する場合、責任は煽った側にしか存在しないのだろうか。

 

 ひるがえって日本である。第二次世界大戦が終結してから、七〇年以上が経過した。江戸の末期、隣国の中国は西欧列強によってくいつぶされようとしていた。その様子を間近でみていたひとたちは、他人事ではないと感じたはず。

 

 そして、徳川幕府による統治は終わりをつげ、時代は明治へと移り変わる。

 

 西欧列強を見本として、社会制度、陸海軍、教育といったものを次々と再構築していく。そして、明治になってから約四〇年後、ロシアという大国を戦争で破るまでに成長する。

 

 いい気になったのもつかの間、このあと日本は海軍軍縮条約などによって海軍力をおさえられたり、関東大震災で大きな被害を被ったりする。そして、時代は昭和へと突入する。

 

 ドイツと同じく世界恐慌のあおりを受け、日本も未曾有の不景気におそわれる。一九三〇年ころの話だ。

 

 このとき日本では大変なデフレになったわけだが、デフレというのはモノの値段が安くなることをさす。さて、モノの値段をあげるにはどうすればいいか。すなわち、インフレを起こすにはどうすればいいか。

 

 流通するお金の量を増やすのもひとつだ。これはインフレ圧力を高めるだろう。これはお金をコントロールすることによって発生させることができる経済現象。また、モノの値段をあげるにはまた別のアプローチがあって、モノそのものの需要を高めればいい。モノの需要が高まれば高まるほど、モノの値段はあがっていく。

 

 さて、モノの需要を高めるものは何か。それは戦争である。戦争をすれば、モノの需要が高まり、インフレになる。そして、経済は活況を呈する。

 

 一九三七年、盧溝橋事件をきっかけに日本は中国と戦争を始める。アメリカから石油の輸出を停止された日本は、資源を東南アジアに求める。東南アジアは西欧列強の植民地であり、特に太平洋はアメリカにとって重要なエリアなので、ここにいたって国益がぶつかり、アメリカと戦争を始めることになる。

 

 そして、二つの異なるタイプの原子爆弾が広島と長崎に投下されて、日本は終戦をむかえる。大国ロシアを破ってからこれまた約四〇年が経っていた。

 

 ぼくたちはこの時代に日本がまちがったことをしていたと教えられて育った。何もかも間違いだったと。その当時の日本国民もそう思ったのだろうか。自分たちがしてきたことは全部まちがいだったと。

 

 なんでもそうだが、すべてまちがっているということはありえない。

 

これは例え話なのだが、結果をだしたアスリートの練習方法や業績を上向かせた経営者のやり方がすべて正しいとは限らない。逆もまたそうで、結果のでないアスリートの練習方法や業績が上向かない経営者の手法がすべて間違っているとも限らない。

 

 ものごとというのは多面的に評価することが可能で、どの側面から、どういう基準をもってきて評価するかで、その結果は異なってくる。

 

 だから、戦争に負けたから自分たちは何もかも間違っていたと考えるのは、どう考えてもおかしい。それは、戦争に勝ったから自分たちがしたことがすべて正当化されると考えるのと同じようにおかしいのだ。
 

 アスリートとして生きてきた知人がよくつぶやいていた。「結果がすべてだ」と。

 

 ぼくはそんなことは全く思わない。あるひとつの競技で結果をのこせなかったとしても、それはものごとの一つの側面で、結果以外にも価値を見出すことは可能だ。たしかに他人に認められることはないだろう。でも、自分が認める余地はのこされている。他人に認められる結果をのこせなかったから無価値だというなら、それは自分の人生を他人にあずけてしまっていることと等しい。

 

 ものごとを多面的にみる力を養うことが大切だと思う。