ぼくは運命のとびらが開く音をきいたことがある
それほど昔の話ではなくて、ほんの数年前の話です。
そのころの僕は、自分の人生をなんとかしようとしてあがいていました。
仕事が終わったあとにチェーンのコーヒー店にいって、カフェインを摂取すると眠れなくなる体質のくせに、コーヒーを飲みながら哲学とか思想、政治や経済にかんする本を読んでいました。
普通であれば資格をとるために勉強をしたり、転職するためのスキルを磨いたりするんでしょうけど、ぼくにはそういったことがどうしてもピンときませんでした。
「結局は、いまいる監獄から別の監獄に移されるだけの話だ。そうじゃなくて、ぼくは監獄からでたいんだ」
その当時の心境を言葉にするとこんな感じになるかもしれません。
ただ、そういった小難しい本を読むことが自分の人生にとってプラスになることなのかどうなのか、よくわかりませんでした。しかし、よくわからなくてもその当時、ぼくに具体的にできることと言えば本を読むことくらいだったのです。
実はいまでもそうなんですが、その当時も本の内容はあまり頭に入ってきませんでした。いまはだいぶマシになっていて、同じ本を三回くらい読むと著者が言わんとすることは頭に入ってきますが、当時は本を読むというよりも字を追っていただけでした。
それでも、自分が信用できるひとたちはみな、本をたくさん読みなさいと言っていたので、それを信じて本に書かれてある字を追い続ける生活をしていました。
そして、息抜きにパチンコ屋に行って数万円負けて帰ってくる。そういった生活を二年は続けていたと思います。
そんなある日のこと。
正確な日付は覚えていませんし、そのとき自分が何歳だったのかも忘れてしまいました。
ぼくはいつものように小難しい本を読んでいました。なかなか読み進めることができないでいた本です。
しかし、その日は違った。どうしてかわからないんですけど、突然、本に何が書かれてあるか理解できるようになったのです。
スピードだっていままでのような牛がゆっくり歩くようなもんじゃなくて、いわゆる普通のスピードで読めるようになった。
あれほどよそよそしかった言葉が、奥行のある立体感をもってぼくにせまってきた。ほとんど汲み取ることができなかった文意をともだちの世間話をきくようなレベルで汲み取ることができるようになったんです。
ぼくはたしかそのとき職場から家に帰るためにバスを待っていたんですが、周囲の建物がガラガラと崩れ、強い風がぼくの身体を吹き抜けていくような感覚におそわれました。
いままでぼくを縛りあげ、窮屈さのなかに押し込め、生きる力を奪い続けていた呪いのようなものが一瞬で姿を消してしまった。
そして、ぼくはこう思ったのです。
「これでなんとかなる」
いまから思うと、あれは運命のとびらが開いたということなのだと思います。そして、つい最近、ぼくはようやくそのとびらをくぐり抜け、人生を運命にゆだねるという選択をしました。
いまのぼくは社会的にはなんら認められていませんし、経済的にも全く保障されていない生活をおくっています。
他人からみると頭がおかしいと思われるようですが、ぼくはあまり怖くありません。
どちらかというと、社会的に認められた肩書きをつけて仕事をし、経済的にも不自由のない生活をおくっていたときのほうがはるかに不安でした。
ここ最近はずっと毎朝はやく起きて、コーヒーを飲みながら東からのぼってくる朝日をおがみます。一日のはじまりにそんな時間を過ごすことができるだけで、何かに感謝せずにはいられないほど満ち足りた気持ちになるのです。
あれほど自分のことしか考えていなかったぼくが、いまは他人のことを考える時間が多くなりました。
「ぼくが他人の幸福のためにできることはなんだろう」
そういうことを意識して、日常のささいな言動に気をつかうようにしています。
ぼくはいま非常に強い力で導かれている感覚があって、それにしたがっている限りはまったく不安ではない。いや、多少経済的な心配はしてますけど(笑)。
ぼくの人生のほとんどは、不安と焦り、劣等感と孤独にいろどられていました。
もし、同じような状況にあって苦しんでいるひとがいるとしたら、その苦しみは自分がつかむきっかけによって終わりうるものだということを伝えておきたいのです。